2012年12月27日

被災地で自分にできたこと、できなかったこと



年の瀬になり今年を総括しとかなきゃと思いに至り、1年半ぶりにブログを更新する。
報告書みたくなるのは避けたかったが、どうみても中途半端な報告書になっている。センスがない。読ませる文章は書けそうもないので、最近したことをできるだけ整理しながら記すことに徹したいと思う。眺めていただけるとうれしいです。


2012年10月末、岩手県陸前高田市小友町において小さな建物が竣工した。小友町只出地区に住む100世帯弱によって構成させる只出部落会という地区会のための集会所である。僕はこの件の発案者であり設計者として関わった。本件は、震災後1年半が過ぎた状況において陸前高田市内で被災した数多くの地区会の集会所のなかで、初めて新築工事を果たした案件であるという重要性はもちろんのこと、それに加えて、被災地の建設関係の歪な状況下において建設費を支援してくださった人々の良心によって実現に至るまでのプロセスに、今後につなぐための価値があると考えている。
本件の発案者&設計者の目線で、被災地の現場で自分にできたこと、できなかったことをあげることで、被災地の状況とプロセスを整理したいと思う。






















・2011年3月〜2012年3月
震災後から計画が始まるまでのことを簡単に。
東日本大震災から一年半が過ぎた今、被災地復興の状況はテレビ、新聞等によって伝えられ多くの人が知っている。直接出向いた人も多いと思う。僕も2011年7月に被災地に直接足を運んで自分の眼で見た。「うわぁ。。。」と連発しながらなんとなく呆然として神妙な面持ちで、テレビで何度も見たような写真を撮っておしまい。東京に戻ってから、どうしようもなく非生産的な行動をとってしまったと後悔した。しかしその後も「うわぁ。。」の後が生産できずにさらに半年が過ぎてゆく。
それでも建築設計に携わっている身として、周りでポジティブな活動が起きていることは情報として自然と耳に入ってきた。そういった環境にいたからこそ、自分も何かを。という気持ちとアンテナは保てていた。


・2012年4月中旬
ある企業が大々的に被災地支援をしたいのだが、なかなか進展しない状況のために業を煮やしているという情報を手に入れる。というか飯食ってる時の話として耳にいれる。
「ホホー」っと思いながら、これだな。と思い立つ。「ならばまずは小さな事業から始めて、期を見て本格的な支援をしたらいいのではないか?ということを提案したいから掛け合ってみてよ。」となり掛け合ってもらった結果、企業側から短い時間ながらもプレゼンテーションの機会を与えていただけることとなる。


・4月〜5月初旬
陸前高田市役所にアポをとり、担当職員の方と相談。支援金を想定しながら、出来る範囲での事業の中から優先順位をたてていく。市役所の職員と議論を重ねていくなかで、ある地区会の集会所を復旧することに話がまとまっていった。その理由は後でまとめるが、ここで印象的だったことを書き記しておきたい。
計画当初、市役所の方も僕自身も仮設団地内へ集会所を建てることを優先順位として話をしていた。市役所の方から敷地候補を挙げてもらっていたが、実際に住んでいる方々から以下のような声が聞かれ、計画を変更した。

「支援をしていただく気持ちはありがたいが、集会所を建設することは仮設団地に住む自分達にとって、“ここに永く住み続けなければならない”という宣告をされているようでつらい。」

この言葉によって自分の立ち位置を見直さなければならないと思ったことと同時に、この言葉が被災地の今を映す生の声であると思っている。


・5月中旬
市役所担当職員と計画・敷地を精査し、また建設後の効果を出す。「只出集会所 新築工事」としてまとめ、企業へプレゼンテーションを行なう。結果、支援金をいただけることとなる。
今回の件も含めて、一般的な支援事業が継続するかしないかは、支援者側に後々巡り巡って有益な事柄が帰ってくるような仕組みを構築できるかに掛かっている。言うは易し、行うは難し。このことを考慮しながら計画敷地を選定するのは、心が抉られるような作業だった。

















真ん中の突き出たところが陸前高田市小友町。左は大船渡。


・6月中旬
支援金を頂けることとなり、集会所建設候補地である小友町只出地区の会長さんを中心に議論を重ねていく。場所はいつも陸前高田市役所内の小さな会議室。なぜか。もちろん集まれる場所がないからである。高台移転の場所決め等、行政から地区会へ下りて来る業務はたくさんあるのに、集まって話し合いが出来る場がどこにもないから、なかなか進まない。集会所の役割は日常の交流の場だけではない。
集まる場所がないから、高台移転の話ができない。地区単位で決まらないから、全体が決まらない。という状況が今も続いている。ちなみに陸前高田市内だけで38ヶ所の地区会集会所が流され、2012年10月の時点で復旧されたものは1つもなかった。

市役所の会議室で話を進めて行く


・7月
集会所の設計を進めて行く一方で同時に、工事を請け負ってもらう工務店を探していた。計画当初は地元の工務店に請け負ってもらうことを優先的に考えていたが、震災後のいわゆる復興バブルによって、どの工務店も仕事がいっぱい。また支援金も非常に限られていたために、請け負ってくれる工務店は最後まで見つけられなかった。さらに個人的な見解として、気仙大工発祥の地である小友町では人々の日常的なつながりや信頼関係の延長として仕事が成立する土壌であるために、設計者である僕に現地の地縁がなかったことが工務店探しが困難を極めた理由の1つであると思う。もっとゆっくりじっくり行なえば良かった。と反省。


・8月中旬
工務店探しが難航するにつれ、工務店に工事を委託することを諦めて自分で現場施工する方法を検討していた。そんな中、岩手県岩手町にある工務店を紹介していただき、会いに行きお話をした結果、後日工事を請け負ってもらえるという返事をいただく。
今思っても、この工務店が承諾してくれなければ、計画が頓挫していた可能性は大きくあった。飛び上がる程のありがたさと同時に自分の無力さを痛感した。
次回はもっと、ゆっくりじっくりと。

・9月初旬
陸前高田市小友町只出地区において、只出部落会に出席させていただく。この総会で初めて地区の人々に集会所新築の件を正式に発表させてもらった。設計者として紹介していただき、設計概要を説明させていただいた














部落会総会にて集会所設計概要を説明


・9月中旬
東京にて実施設計と確認申請の準備。
木製建具を使用することを計画していたのだが、予算の都合上難しいとのこと。
ならば中古!!と探していたところ、神奈川県逗子市にある桜花園さんから木製建具の支援のお声掛けをいただいた。廃校になった中学校の中廊下で使っていた建具や、民家のフラッシュ扉など、集会所で使うすべての建具を支援していただいた。その規格に合わせて設計修正を行う。困ったら困っていることを正直に打ち明ける。大事だと思う。

















本プロジェクトで使用させていただいた神奈川県逗子市の古建具。中には、廃校となった中学校の教室で使われていた建具もあり、おー復活おー復活でワクワクした。笑


設計に関して、今後の指針になりそうなことを簡単にまとめておく。

・床面積について
床面積が50㎡を超えないようにすることがとても重要。
これを超えるか超えないかでいろいろな規制緩和があるというのは皆さんご存知のところ。
・仮設申請について
岩手県では仮設申請というものは基本的にない。(その他の県のことは良く知らない)だからくい基礎等にする理由は予算の都合でしかない。本件では、長い間(上ものが壊れるまで。)使いたいという話があったことから、予算上とても厳しかったが、コンクリート布基礎にしている。
・津波に使った場所について
本件の敷地は実際に津波に浸かった場所である。津波に浸かった場所は今後どうなるのか。全体のことはまだ良く調べていないが、本件の場合、2年後を目安に国に買い取られる予定である。その後、地区会でその土地を国から借りることで集会所使用を継続することが決まっている。





・9月初旬
本件の地鎮祭を行った。

・9月中旬〜10月末
只出集会所新築工事が着工。現場期間中ずーっと、地元の方々の家に点々と泊まらせてもらった。みんなの孫のようにかわいがってもらった。
現場ではわからないことだらけで、色々な人に面倒をかけた。みんながやさしすぎて、そのやさしさに平気で甘えてしまった自分を恥じたい。
10月末無事竣工。
























以上が本件の流れ。
震災後1年半が過ぎた今でも、現地には奇麗事を言うのでは済まされない状況があって、それを継続的に支援するボランティアの方々の姿を見ることができる。心の底から尊敬します。国内外含めてとおーい場所からなんやかんや言うのは簡単だけど、実行する人は黙ってやるんだ。本当にかっこいい。
僕にはそんなかっこいいことはできないみたいだから、せめて、やってから、ぎゃーぎゃー言う人をめざそう。












すぐ近くに海がみえる。

幸運なことに、多くの良心に巡り合い、なんとか完成させることができた。助けてもらった身であるからこそ『自分にできることはなにか。また自分にどこまでできるのか。』を考えながら計画を進めてきた。『どこまでできるのだろう』なんて、とんでもない。プロにあるまじきスタンスである。

だから僕にはプロセスを多くの人に見てもらう役目があるし、この件が今後少しでも多くの人の『自分にできること』の枠を広げるための勇気になっていただければとてもうれしい。そうでなければ申し訳ない。
来年は計画を継続していける仕組みを構築していく年に。
もっと役にたつ人間になりたい。
とりあえず今年のまとめとして。









2011年5月31日

定着と飛躍。Le Corbusierと伊集院光と桜井和寿。

『ラジオで”松の木におじやぶつけたような顔のブスな女がさぁ....” って言うと、リスナーの想像する顔は、自由度がすごい高いけど、ゴジラ松井が女装したようなのを想像するのが多いんじゃないかな。もっとすごいのを想像できるならばさらにすごい。それぞれの頭にある定型によって、なんとなくある方向に想像力が働く感じでいてバラバラな感じ。松の木みたいに肌がごつごつしてて....とか全部説明しちゃうんじゃなくて。その共有できて”いそうな!”瞬間が提供できたらすごい幸せ。』 by伊集院光

伊集院光の真骨頂。松の木におじやぶつけたような顔のブスな女って。はは最高。まさにその通り。この言葉には、受け手の知性があぶり出すメタな世界での意味のさらなる飛躍に期待しているクリエイターとしてのとても真摯な姿勢を、彼特有のニヒリズムと交えて解いている。
伊集院光のラジオ番組を聴いている人はたくさんいると思う。僕も結構なヘビーリスナー。中学2年からずっと聴いている。彼の言葉とその語り方は僕の人間形成に結構な影響を与えてくれている。中高時代、録音した音源を友達にくばって授業中に聴いていた。そして、僕含め友達は全員現役受験に失敗した。笑 浪人で見事リカバーし皆結構すごいところで活躍しているのをみると、やっぱりねって思う。笑
さてそれに対して。





『僕は星座で言うと、星を並べたいって思ってて。例えばさそり座だったら、さそりに見えそうな所に星を配置するのが僕の仕事で、さそりの絵を描くのはリスナーだと思っている。だから、聴いた人皆が1つのさそりを想像しちゃうような星の配置は避けようと思っている。』 by桜井和寿

こちらは桜井さんの言葉。いやぁ、同じ感覚を言っているのにこうも違う。でもいい言葉。さらにこっちの方がわかりやすいっていう。《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》という型を用意する。そこにまずはある物事を定着させて、その先は想像でどこまでもいってもいいよっていうこと。定着からの飛躍。飛躍のための定着。だからクリエイターは何も用意しなくていいってことでは絶対にない。定着部分をデザインし用意する。それが仕事。
彼は、最近になって人々と共有できる曲をとても意識的に書いていると言っている。1つの曲を、個人の中でいろんな解釈として咀嚼した後にできる何十万の意味を持った1つの曲。僕はHOME以降のMr.childrenがたまらなく好きだけど、そんなことと関係しているんだろうなぁ。






伊集院のいう《松の木におじやぶつけたような顔の女》と、桜井のいう《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》というのは想像の飛躍の前段階、ある慣習的な部分を定着させる器のことを示す。つまりなにかを設計する段階で必要な図式のことを示している。
慣習的な物事を定着させる器としての図式の提出と、そこからの想像の飛躍のための余地をどう含ませて具現化していくかを示している。
超一流のクリエイターである2人の言葉。
図式とは物事をわかりやすく説明するための図のことである。何となくお互いが共有想像できる、概念として明瞭性をもったものが図式である。なにかを設計する場合、最後に形として残るにしろ残らないにしろ、最初に図式を提出することが必要となる。ってかデザインは図式なしにはできない。






慣習的な物事を定着させる器としての図式の提出と、そこからの想像の飛躍のための余地をどう含ませて具現化していくか。
さて、前回の続き。コルビジェの晩年の名作、ラ・トゥーレット修道院の感想と思ったこと。上に述べた言葉を交えて考える。
僕の中では前述の伊集院と桜井の言葉とこの建築が共振しているのだ。
最近の学校。こっち来て7ヶ月目にしてスタジオのことで先生にめっちゃ怒られた。まぁ全面的に原因はこちらにあるので何も言い返せない。英語で怒られたという事実の新鮮さに多少驚き半分嬉し気味の顔をしていた僕を、周りのやつはドMとしか思わなかっただろう。笑
ラ・トゥーレット修道院。前回書いた通りだけど、カトリック系の修道士達の場所。聖堂、食堂、勉強室、そして最低限のスペースとしての個室がある。それが中庭を中心とした《回廊型プラン》の中に配置され全体が作られている。ここまではシトー会系修道院と似ているが、その決定的な違いは中庭の作られ方にある。
この修道院は南に下がっていく丘の上に建っている。ピロティーを使って、その状況から建築全体を切り離す操作を行うことで、《回廊型プラン》の中心である中庭と建物外の緑地の接続が起きている。

ラ・トゥーレット修道院の中庭。土地の傾斜と列柱によって作られるピロティー空間。中庭は外の緑地と連続しているため
風が抜けてホント気持ちがいい。土と緑。そしてコンクリート。光と陰。生をビンビン感じる場所。

シトー会系修道院の中庭。土地に傾斜があるののの、それは建築内で解消されている。フロアレベルを土地のレベルに沿って変化させることで中庭の固有性は確保される。あとは前回の通り。


さらに、シトー会系修道院では中庭にあるのは、土と緑と空。それらが装飾の施された回廊の壁に囲まれているのに対し、ラ・トゥーレット修道院の中庭にはその他に、建物の基本構成とは独立した様々な言語が意図的に付け加えられている。

 ラ・トゥーレット修道院の中庭。土、緑、空の他に、全体の構成からは必要性を感じない螺旋階段の円筒や、三角に尖せ物量を感じるハイサイドライト。それに寄せ棟型の屋根をもつ祈祷室が中庭に面して、確固たる形をもった物ものがぼこぼこと出現している。

これらの中庭を中心として起きている2つの事項が、この建築の明瞭性を濁らしている。シトー会系修道院が持っていた定型《回廊型プラン》の建築とはかなり違った印象を持つ。ラ・トゥーレット修道院を、修道院建築に多くみられる《回廊型プラン》型建築としては複雑でわかりづらいものとして理解・回収してしまっては凄くもったいない。
僕の中では前述の伊集院と桜井の言葉とこの建築が共振しているのだ。

ここでもう一度、上述の”定着としての図式とそこからの飛躍”の話を出してみる。僕がみた修道院建築(ラ・トゥーレット修道院と3つのシトー会系修道院を含めて)でいう図式とは、《回廊型プラン》のドーナツみたいな輪といえる。そうしよう。そこから必要とされる聖堂、食堂、寝室、勉強部屋がその輪に纏わりつくようそれら互いの関係の中で整理されて配置される。その整理の中で閉鎖的な中庭の位置づけが決まっていく。修道士の一日の主な活動である食事、勉強、祈り、睡眠のサイクルを《回廊型プラン》の中に定着させることでこの型が定型とされていったのだろう(たぶん遥か昔に)。

そうして時間をかけて作られた生活のサイクルを定着させる器としての図式を採用し、その図式《回廊型プラン》を空間に言及するまでに大事に育て上げ具現化することで、建築と人の幸福な関係を作り出しているのがシトー会系修道院だと思う。概念としての明瞭性(わかりやすさ)と体験時の身体が重なり合う安心感がある。
それに対して、ラ・トゥーレット修道院は、《回廊型プラン》の輪という図式は採用しているものの、それをとても一見雑にとてもゆるーく具現化する。上記の中庭のことと、なにより回廊に多くの独立した言語が張り付いているために一見わかりにくい。
もはや体験時に回廊型であることを忘れてしまえば、いろんなルートが考えられる。もうぐちゃぐちゃ。がしかし、そうと思ってプランを見返してみると、実にうまく回廊型プランを咀嚼していてそれぞれの場所が回廊を中心に奇麗に配置されている。とても不思議ことが起こっている。回廊型としても、そうではないものとしても、いろいろな人がそれぞれで解釈し使える、でも絶対に回廊型プランといえる、《ゆるい回廊型プランっぽいもの》を見事に作り出している。







《ゆるい回廊型プランっぽいもの》、
《松の木におじやぶつけたような顔》と
《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》。
このことこそ、今回書きたいこと。
《松の木におじやぶつけたような顔》、 《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》を用意して、どんなブスか、またはさそり自体の絵は聞き手に委ねる。
《ゆるい回廊型プランっぽいもの》を用意して、その使い方は使い手に委ねる。
さらに、解釈の自由度が高い中で、そこに多くの人がある程度の絵を共有できる可能性をきちんとみていること。これが最も重要。







図式を表現しすぎないこと。余地の作り方。
図式を用意した後に、そこからの別の解釈ができる隙を作るということ。
図式は必ず必要ある。僕らの体も頭も、経験した枠に定着させてからではないと、新しいことを新しいことも認識できない。図式なしには、デザインすら始まらない。まずはその枠=図式を用意すること。それ自体がすでに持っている意味を咀嚼すること。その次に、ものを具現化させる段階でどう使うか。その段階で図式を強く表現しすぎない、または少しずつ壊していくことで、新たな意味を使い手、読み手側が吹き込める余地を作ること。
そして、うっすらと多くの人が共有している可能性が見て取れること。それを望むこと。

このあるグルーブ感が発揮された時、おそらくそのものは永遠の命を手に入れる。
そう思う。








2011年5月18日

建築の型。世界と接続する現象。

一ヶ月近く間があいたな。やっぱり。自分がマメな性格でないのはよくわかっているよ。思えば小中高とも成績表にいつも”明朗快活”ってキーワードが並んでいた。大雑把な性格を表す丁寧語なんだろうなぁ、あれ。
ともあれ、4月に見学したコルビジェ先生の晩年の名作、ラ・トゥーレット修道院Couvent de la Touretteを見学したときの感想と思ったことを書いておこうと思ったけど、書き始めたら脱線したので、今回はシトー会修道院だけ。そこから次回Couvent de la Touretteに接続しませう。
最近生活サイクルが狂いまくってる。夜の10時近くまで明るいと体内時計がもう訳わからなくなる。インターンのためのポートフォリオ、ノリで出したコンペ。あとは、最近ダメだしだらけのスタジオ。時間あるはずなのに全然時間がない。こっちきてから時間の使い方がへたになっている。
          ラ・トゥーレット修道院。丘の上から下界の街を見下ろすように、建っている。でもこれはまた次回。
この建物は言わずもがな、カトリック系の修道士の住処であり聖堂である。修道士は一日の大半をそして人生の大半をこのコンクリートの箱の中で過ごしている。僕らが宿泊したその日もそうだった。ここには聖堂があり、食堂があり、勉強室があり、そして最低限のスペースの寝室群が用意されている。そんな修道士の生活の場が、回廊型プランの中に定着している。全体の内部構成はとても明快でわかりやすい。回廊に沿うようにまたは回廊が建物全体の中心になるような空間構成は、他に訪ねた修道院にも共通している。
シトー会の修道院に話を移す。



          シトー会のセナンク修道院。宗派が違うが、同じく回廊を中心に持っている。
 
 シトー会系の修道院。主に12世紀前半にかけて広まり、他と比べてとりわけストイックな宗派であったという歴史も含めて、ロマネスクの修道院の中で傑作と讃えられている。僕も例外なくとても感動させられた。装飾が....とかよりも、その場に流れていた決定的な事象によってだけれども。
修道士の生活は、僕なんかと違って実に規則正しい。祈り、食事、労働、学習、睡眠という生活のサイクルを、死が訪れるまで継続することで、彼らの悲願は達成される。そんな修道士の生活のリズムを単純な矩形の回廊が定着させている。
さらに矩形の回廊は、これまた矩形の中庭を作る。


          シトー会のル・トルネ修道院。回廊に囲まれた中庭には、空と土と草花が。それしかない。

その中庭には自然しかない。空と土と草花。修道士の一日の時間の流れとここで起こる彼らの死までの時間の流れを、圧倒してしまう程の壮大な時間の流れがここにはある。
いや違うなぁ。そんな当たり前のことを改めて意識させるように、中庭が自然を切り取っていると言ったほうが正しいかもしれない。



修道士のぐるぐると巡る時間の流れと、その真ん中に流れる自然の壮大な時間の流れ。ひとつの建物の中に、圧倒的に異なる時間の流れが重なっていること。そして、それを包括し定着させる建物の型。囲って切り取ることによって、改めて意識させられるこの世界の悲しくなる程の圧倒的な大きさに僕個人が接続したようで、心が揺らいだ。とにかく圧倒的に”世界”を意識せざるおえなかった。
絢香の「みんな空の下」って曲のタイトルも、この意識のきづきにちょっと似てる。あれ聴くと、只ただぼーっとなる。




これは前にも書いたことだけど、優秀な建築の型には、そこから新たな現象を生み出す力がある。そこ(ある限定された世界)にあるべき生活像と、その周辺(その他の世界)との長期間の関係を考えることが設計であり、その関係性にきちんと言及した建築の型には、そこに滞在する人々の想像力と重なって、世界と接続する現象が生まれる。いや生まれてしまう。
今回の場合は、そこにあるべき生活像=《祈り、食事、労働、学習、睡眠の継続するリズム》と、周辺との関係性=《周囲から閉ざされる》から導きだされた建築の型《回廊型のプラン》が、人間の生活とその中心にある自然との時間の流れのコントラストを見事に包容したことで、生み出された現象であると考える。本当かは知らんけど。結果そうなったのだ。

建築ってとことん懐が深い。



閉じようとすればするほど、恥ずかしいほどに世界にさらされる感じ。
修道院という宗教上、周辺から物理的に孤立することを前提としたビルディングタイプの中でこのことを感じたことに、建築の人に対する寛容さと偉大さを感じてしまった。

2011年4月11日

建築家としての姿勢。ALVARO SIZA→AIRES MATEUS。1+1=3。

今回はALVARO SIZAの話とその展開。シザとかになると、ベタ褒め感動しか話さない、書かない人ものが多いけど、それでは後には何も生まれない。だからここでは、はっきりとその先まで話を展開させよう。批判はどんどんカモン。
すべてはその後の展開が大事。自分の為。日本の為。僕らの思考は止まったら終わりの生ものです。

ポルトガル。ALVARO SIZA VIEIRA 17件。SOUTO DE NOURA 3件。AIRES MATEUS 3件。走行距離ようわからん。でも、平均で15分で40キロくらい移動してたw
今、生のある建築家の中で、神と呼ばれる建築家がこの世には何人かいる。その一人がポルトガル人。建築勉強している人なら必ず目にするであろう。ALVARO SIZA VIEIRA。今年78歳の現役建築家。ポルトガル国内では、街行く人たち皆彼の名前を知っていて「あぁ、シザの建築観に来たのね」って笑顔で場所を、しかもポルトガル語で教えてくれる。(こっちも、一言もわからない言語をわかったふりして笑顔をかえすんだけどw)そんな笑顔のコミュニケーションとサンサンと降り注ぐ太陽の元で、元気いっぱい。さらに建築家が本来とても高貴な職であることを再認識させてくれて気を引き締めると共に、お腹いっぱい。


さて、ALVARO SIZA VIEIRA(これ以後シザ)に話を戻す。17件の紹介をするのは別の機会に任せることにして、今回ここでは彼の作品を通して考えたことを書き記したい。下に載せているのは僕のスケッチの一部。元々絵が下手なのに、さらに現場でざっと書いていたことが重なり、とても稚拙な表現に留まっているが、感じたこととここに記す展開が押さえられていると思う。(クリックしたら大きくなります。)
左上:Galicia Center 右上:Municipal Library
左下:Communication Fuculty of Univ Compostela 右下:Igreja De Marco De Canaveses
左上:Igreja De Marco De Canaveses 右上,左下,右下:Aveiro Univ Library

左上:Pavillion of Portugal 右上:Adega Mayor Winery
下:College of education of Setubal


シザは、よく建築モダニズムにおける正統後継者と位置づけられる。前に書いた日記の最後に出てくるコルビジェ、それからアールトの系譜の後継者。僕のモダニズムに関する解釈の仕方は、教科書に書いてあるそれとはとても異なるが、”空間の構成と場との関係で建築を構想し、その場に消えている、もしくは根付いている豊かな環境を掘り起こすための建築を作る。建築は社会の一部でしかなくそれ以上でも以下でもないと主張した人たちの運動”。と解釈している。彼はその系譜に乗っている人。              
特にシザは、”根付いている豊かな環境を掘り起こす”の部分が飛び切り良い。(今回の見学で建築の立ち方にも、ものすごく感動した。けどとりあえず。)ポルトガルは太陽があつい!痛い!気持ちがいい!この相反したい事項を重ねた太陽光が空から降ってくる。この光を取り込んで空間を作るのが抜群にうまい。妙なことはしない。
何件も見ていくと、設計ルールを大きく2つ見いだすことができる。この組み合わせで毎回僕らに新鮮な感動を与えてくれる。


①”東、西、北のどちらかの方向に水平連窓もしくはロッジアを設けて、柔らかい光と風景を取り込む。南側(教会は西側だったけど。)からトップライト、ハイサイドライトで点の印象的な光を落とす”
②”洞窟を想起させるような囲いで光を覆う。囲いの仕方で光を床に落とすのか壁に当てるのかを操作する。これがシザの真骨頂。まぁ半端者には。。”


特に②の囲いの操作は、ちょっとぉお!待ってクダサイヨーってな感じで、至る所に出てくる。階段の吹き抜けの腰壁として、天井の端の凹みにも。だから①で落とした光が予想外の所にまで落ちてきたりで、構成以上の視覚的複雑性を得ていて楽しい。
そして、なんと言っても大事だったのは、どの物件もとても居心地が良かったことだ。柔らかい光が入ってくる陰の部分に人が溜まり、上から落ちてくる陽の印象的な現象と水平連窓から見える風景を楽しむ。大学の施設でも、図書館、美術館でも教会でもやることは変わらない。そして与える感動の強度も変わらない。それはなぜか。彼が導く出す形式は、”誰のため、何のため”であるか、その点がとても的確にあって作り出されているからだ。だからどんなものより柔軟でそして強い。

食堂のおばちゃんが映ろうが献立が映ろうが、人のための①②による彼の空間は失われない。
居心地がいい。






この先は、感動と同時にわき出した疑問とそこからの展開。



上記のように、彼の空間は、言ってしまえば1つの空間を作る①②の形式によってできている。それが故に、必然的宿命的に彼の建築は薄い。Thinである。細かく言うと、彼の建築は印象的でオープンなスペースの作り方故(特に①)に、条件として必要とされる居室をそのスペースの片側に平行につなげる、もしくはオープンなスペースだけにする空間の構成形式を選択せざるをえない(それでいいか悪いかは別にして)。だから断面上短手部分はどこを切っても幅を持たないし、持てない。

例えば50M×50Mの建物を作ってくださいと言われたら、うーむと思ってしまうのだ。大きな床面積と居室数を条件にされた場合、その中でシザをどう乗り超えられるか。それを考えなければならない。

この話は何もここだけではなく、建築界が長年抱えている問題、建築の大きさと空間の質の関係に話を接続させることができる。建築の大きさに対して、建築家の思想をどこまで等しく広げることができるのか。


そこに対する答えの一つをAIRES MATEUS ARCHITECTSが導いていると感じた。

  Sines Art Centre. by AIRES MATEUS ARCHITECTS.
建築の大きさが求められる。この可能性をみる。

中に街路が横断している。そこにあのシザでみた水平連窓。

AIRES MATEUS。ポルトガルの次世代を担う若手建築家兄弟ユニット。最新のEl Croquisは彼らの特集号のようで。彼らの作る建築は一見とてもわかりやすい。というのも、彼らがもつルールの中の一つに空間の配列複製があるから。日本では、図式建築なんて呼ばれたりもするだろう。このSINE ART CENTREもそんな彼らの作り方がとてもうまく描かれている。

そもそも一つの空間を配列複製、分散配置し、全体形を構築していく方法がこんなにも世に溢れ出したのは、先ほど出した”建築の大きさと建築家の思想の広がり”に関係している。僕がわかりやすく例を出せるのは、やはり妹島和世。彼女は自分の身の周りの半径数メートルにある自分を包む身体的感覚によって建築を作る。いや、それしか信じない。だから、依頼される建築の大きさが大きくなっていった時に、彼女は自分の身体感覚で設計できる範囲を一つの構成単位とみなして、その質を配列複製して建築の大きさを作っていく手法を見いだした。
さらに配列複製という手法は、その他の操作(例えば窓の開け方)とうまく重なった時にだけ、新たな現象を生む。これこそが、彼女のそしてSANAAの建築が持つ独自性とうまさでだと思う。身体が延長していく感覚。これは、僕がAlmera Stads Theatherに行った時に感じた感覚。青木淳はこの感覚を次のように表現する。
”1+1=3”
説明しようとするとややこしいのだが、似た場所を2つ作った時に、あちら側にいる時と、こちら側にいる時の二つの感覚があるのと同時に、こちら側にいるんだけどあちら側に身体があるようなもうひとつの感覚。借景とかとはまた違うんだけど、とても現代的な感覚とされ、僕自身はこの感覚こそ日本的であり可能性があると思っている。

水平連窓に、トップライトを並列。空間の作り方はシザに似てる。彼らはその空間を配列複製していくことで
建築の大きさを獲得していく。しかもそれだけではない。
水平連窓の重なりから生まれる、1+1=3。ここでは、マテウス達がシザの言語が持つポテンシャルを
さらに引き出す現象を作りだしていることを体感することができる。

彼らは、シザの空間形式を参照しながら、建築の大きさを作る形式(配列複製)の可能性を導きだし、さらに配列複製することによって、シザの空間形式に秘められた新たな可能性(1+1=3)までも模索していると読める。先人が導きだし定着させた形式を参照していく上で、その次の世代が、それを踏襲しながらも現代的な感覚で、それが持つポテンシャルを引き出し、湧き出てくる問題点を飛び越えていく。世代を跨いで考察していくことで、愛されていく建築の作り方、継続の仕方とその塗り替え方、建築家としての姿勢を学ぶことができる。うん。とてもよす。

2011年3月21日

必要な時間。それを飛び越える光の速さ。

すべてを無くした人たちのために、そこに根付いていた経験とか記憶とかの質を含んだ復興を。超光速で。簡易テントとかじゃない。
今回は時間と質の両立というジレンマに対するただのもやもや。

大地震から早くも一週間がたつ。日本から遠く離れた場所にいても情報は入ってくるので、ほぼリアルタイムで地震と津波が招いた被害の経過を追っている。この地震は日本で起きていて、震源も広域なので、今回の地震を人ごとのように見ている人は少ないのではないかと思う。僕の祖父母と叔母家族は岩手県の宮古市に住んでいる。今回の地震と津波によって街の多くが無くなった。命があってよかったというのはもちろんのことである。が、命あるからこそ、彼らが暮らしてきた街がなくなったことの意味の深さが胸に突き刺る。
書いておかないと前に進めないので、今は無理矢理書く。建築になにができるかということと同時に、そもそも僕らがしていることとは何のためか、誰のためなのか。を自問する。今回に限って答えなんてない。
書いてみた後、もう順番がぐちゃぐちゃだったので強制的に前置きを挿入。

モノを作ることには、現在の場と人の中にある豊かな経験への批評とそれを更新続けるための新鮮さが求められると同時に、それが20年30年後にどんな意味をもつのかを見通すことが求められる。反語的にかつ極端に言えば、僕らのやっていることが成就するには、絶対的に時間が必要なのだ。今現在にできたモノで僕らが評価できていることは、それがもつ将来への可能性にすぎない。




”僕らはモノを通して、長い時間をかけてそこに根付くであろう幸せを想像している”
そう。だからこそ今、本当に息苦しい。時間がない。





僕の生まれ故郷ともいえる場所。
覚えてないけど、僕はそこで生まれた。僕が生まれた80年代後半には漁港街として栄えたこの街も、今ではご老人たくさん、駅前に大きなスーパー、商店街も廃れて、ビジネスホテルがボーン!!..........とまぁなんともイメージ通りの衰退を描いていた。
でも、僕はそれはそれでいいと思っていた。廃れると言っても、商店街にはそこに住む人々の間での画一された需要と供給が存在してるし、駅前に巨大なスーパーができたからって、そこで働く人も皆顔見知りのような。何万という人が暮らしているけど、街に住んでいる人々ならお互いがお互いのことを何でも知っているという雰囲気が満ちてた。”○○高校で成績が一番のあそこの家の息子が○○大学に進学した”とか”あそこの魚屋の奥さんと一緒にお茶した時に聞いたんだけど...."とか。街全体が暖かい愛で満ちていた。街に住人の経験記憶が染み付いていた。確かに人は減ってるし、高齢化は進んでいるし、インフラも整備しきれているとは言えないけど、次の子世代とその次の孫世代はいるし、幸せを一歩一歩継続できる地盤は確かにあった。
話は少しそれるけど、だからこそ地方へのある種の改善のための提案を見るたびに思うことがある。
「それは誰のためを想っての危機感なんだろう」
僕は、”コンパクトシティ”等の話に同感するところがある一方で、その話が持つあまりにも長い時間には想像力が追いつかない。勉強もしてるし、楽観視もしてないけど、あまりその危機感に実感がないのだ。国の為か。そうだよね。わかっています。でもごめんなさい。僕が考えられることは、想像力でかすかに見れる誰かの為の50年後より、身の回りに存在している人と場所の為の20年後です。そんな建築家が続いていけば、経験も記憶も続いていくよ。



....と最初の前置きを含めて、僕の想像できる時間も、創造するに必要な時間もそんなもんだ。でもなぁ20年。今回ばかりはそれすらも待てないよ。すべてを無くした人たちのために、そこに根付いていた経験とか記憶とかの質を元通りにしたい。超光速で。

僕のような学生が今考えないといけないことは、簡易テントを建てるということだけではない。超光速で行われるべきである復興の中に、今まであったはずの経験と記憶の質をどう組み込めるのかということだ。
時間と質の両立。アレグザンダーが一度立ち向かったこのジレンマに、もう一度。
考えよう。考える。

2011年3月8日

オルタからリートフェルト。近代建築の船出。勇気と国境。 

近代建築が生まれるきっかけと、それを生み出した勇気の連鎖の話。少し長いが、近代への流れがざっと掴めると思うので、さらっとお願いします。

僕が今、留学しているオランダ、その隣にあるベルギー。自分で言うのもなんだが、この2つの国、まあぁ〜地味な国である。旅行で行きたい場所として真っ先に挙がるパリ、ミラノ、ベルリンなどの観光スポットはない。飯に関して言えば、ベルギーはうまい。オランダは.....うん。まずい。すごくまずい。美術はすごいよ。レンブラントにフェルメール、ゴッホにエッシャー。まぁでも総じて地味である。女の子の卒業旅行で名が挙がることはまずないだろう。先日パリに行ったら、うじゃうじゃ日本人女子がいてびっくりしたものだ。
しかしこの2つの国は建築の分野で、近代建築、つまり現在の僕らの生活に直接影響を与えた建築を生み出した礎を気づいた、とても重要な国。これはホント。近代建築の父はコルビジェでもミースでも、ましてやグロピウスでもないのだよ。オルタとリートフェルトなのです、と言ってみる。このことは、かの有名建築史家、藤森照信先生の本にも記述されてるので、一学生の戯言が!と思われた方も最後までご笑読あれ。あと、建築学生は旅行でオランダとベルギーには必ず行きましょう。その理由をこれから。


さて、まずはオルタから。Victor Horta。アール・ヌーボの時代に生き、1890年代から20世紀初頭にかけて数多くの作品を世に生み出したベルギー建築界のドン。いや彼の作品の輝きを見れば、当時のヨーロッパの建築界は、彼とオーギュスト・ペレ、少し遅れてペーター・ベーレンスという布陣で回っていたとも言える。まぁ、そのくらいすごい方。そして、数少ない現存する作品の中で、彼の力量を最も知ることができるのはオルタ自邸(現名:オルタ美術館)である。
           内部は撮影不可なので、写真はwikipediaから拝借。 
この作品の個人的な感想は今回は割愛する。良かっただのの意見はいくらでも言えるが、今回は全体の流れの中にオルタを位置づけることを優先。そもそも、建築におけるアール・ヌーヴォとはなんぞやという話から。よく言われるのは、「鉄という新しい材料の加工技術が向上し、その材を先行して新しい作品を生み出していた芸術分野に習い、装飾として建築に取り込んだ。」という話。その通りだけど、この文章からは、建築家の新しいモノへの好奇心で....という、なんともおマヌケな側面が全面に出ている。言い方悪いよな。これでは、アール・ヌーヴォは建築家が成したとても幸せな10年間としか思われない。(そう記述された文章やコメントをあきれる程見かける。マジで言ってんのかよ。建築なめんな。)
そうではない。 

知っての通り、現在私たちの周りに建つ建築は、それぞれが意味論理を含みながら、とてもスマートに建っている。これは構造分野の発達に起因する部分が大きい。裏を返すと、本来、建築は構造物であり、原始の時代には建物の支持構造が建築のほぼ唯一の問題点であり主題であった。建築を考えるということは、構造を考えることとほぼ一致していたのだ。それが技術や材料の向上により、支配的であった構造の問題はその重要度を薄めていき、「主題」は自然に、その存在証明(意味の創作)へと変動していった。
アール・ヌーヴォは、その数ある変動期の一つで起きた活動である。オルタらはこの中で、構造から切り離された材の在り方について思考した。人間と材との関係性。人間の生活に材を沿わせるという考え方。さらにオルタらは、その前に世界を支配していた古典主義(古典的なものを尊重しようという考え)をどうにかして打ち破ろうとしていた。材料の発達という、建築創作の「主題」をさらにその存在証明へと向かわせる状況の中で、さらに大きな命題を自らに課したオルタ。
つまり、アール・ヌーヴォにおける彼らの活動は、「自らの創造の存在証明を得くと共に、構造から切り離された材を人間に沿わせるという思想を元に、構造故に古典建築が持った神への精神性を真っ向から否定しようとした活動」であった。ふむw

結果は知っての通りである。彼の作品の多くは、アール・ヌーヴォの終焉と共に壊されていくこととなる。なぜか。それはおそらく、彼の作品がもつ言葉が国境を超えることができなかったからである。彼の思想は材と人間の関係の近さという点で古典を打破しようとしたが、古典主義時代の建築もそれを否定したアール・ヌーヴォの建築も姿の違いはあれど、どちらも"土着的"であったことに変わりはなかった。その地域での在り方、建て方があり、建築はその土壌の上に建つということを強く意識していた。オルタの作品は思想も姿も、どこまでも"土着的"でどこまでも人間的であり続けた。(かっこよす。)だから、同じく姿は"土着的"でありながら、その思想が”国際的”に成熟していた古典主義には勝つことができなかった。




それから時間は少しだけ流れる。(藤森さんの見解ではこの間にワンクッション。でもまぁ、長くなるし実際に見学したことがまだないので今回は先を急ぐ。)その隣国、オランダで、リートフェルトが立ち上がる。(嘘うそw。すでに生まれてるし。まぁ面白く。)

リートフェルト。Gerrit Thomas Rietveld。オランダで生まれたデ・ステイルという運動に所属し、家具や建築を担当する。彼らはすでに起きていたcubismなどと少し近いけど、直線、面、対角線などの幾何学を使って、人間の生活、動き、つまり人間の感情を包み込む作品を作ろうと活動を行った。まず有名なのが、red&blueと呼ばれる椅子。そしてシュレーダー邸。



               ちなみにこれも内部撮影不可。なので他サイトさんから拝借

幾何学を使って、人間の生活、動き、つまり人間の感情を包み込む作品を作ろうとする思考。この考え方こそが、オルタらがなし得なかった、世界中に蔓延した古典主義を打ち破る程の”国際性”を獲得することになる。
なぜか。

彼らは、人間の感情を包み込むという、これでもかという程のねちゃねちゃした”土着的”な考えを持ちながら、誰もが学校で習う幾何学という世界基準の言語を使って、それを実践した。つまり、幾何学を用いることで、彼らの思想は短期間(光程の早さでw)で国境を超えることが可能となった。じわじわと長い時間をかけて”国際性”を得てきた古典主義という考え方を、幾何学を使うことで短期間で乗り越え、共有可能なものとした。ここに彼らのスゴさがある。ちなみに、この幾何学というワードは、建築を語る上で必要な"構成"という言葉を与えた最初である。コルビジェ、ミースはこれにものすごい影響を受けて彼らのキャリアをスタートさせた、とは藤森先生の見解。人間の生活を考えながらも、古典を打破するためにあえて"土着"と切り離して作られたこの外観。ここにオルタから続く次世代を切り開いた勇気の連鎖をみることができる。





”構成”という言葉を獲得した建築家達は、コルビジェ、ミースを中心にこの後、近代建築大航海時代へとうつっていく。
ここには、既定を捨て国境を越えた言語を獲得し、その後の時代に決定的な影響を与えた建築家の勇気が映し出されている。

2011年3月5日

当たり前の豊かさ。豊かな当たり前。と、そのループ。

オランダに来てから半年が経過した。この半年間、今まで目にしたことがなかった新しいことをたくさん経験してきた、がそれと同時に日本にいる時に当たり前にしてきたことができない不自由さをたくさん感じてきた。留学当初、まずすべての人々に立ちはだかる言語の壁。互いにすべてを伝えられないコミュニケーションとそれに起因する事務的な手続き等の不一致。あぁすべての問題は言語の壁を突破すれば解決するはずと思い、ようやく言語の壁が崩れてきた頃に気がつく、”そもそも”の社会構造の違い。日本とはまるで違う。こちらではすべてのことを能動的に、自分から突っ込んでいかなければ何も進まないし何も生まれない。わかりやすいのは、大学での授業と試験のこと。日本では試験は授業を受講していれば、期末又は中間に自動的にやってくる。こちらではそうはいかない。授業と試験はそもそも別で、授業は授業で勝手に受けていいし、試験は受けたければ受けていい。しかし ”自動的にやってくる”ということは絶対にない。どの授業も試験期間が近づくとそろって「次の試験を受ける意思があるのならば、サイトにて受験のEnrollをしなさい。」というお知らせが入ってくる。Enrollがなければもちろん受験することはできない。学生は授業を受けさせてもらっている、学ばせてもらっている立場であったことを確認させられる。

さて前置きが長くなったが言いたいことは、オランダに来て半年間、これまで無意識的に行っていた行為あるいは役割をもう一度意識化させる、つまり「当たり前の確認」という作業を意識的に(半ば強制的にだけど)繰り返してきたということだ。留学とは「当たり前の確認」作業に尽きると言っても過、、過言か、、、いやここは言いきろう。過言ではない。
ここまでだと、「んだよっ!お前は確認作業しに海外いってんのかよ!」と言われそうだが、そうではないのでもう少しだけご辛抱を。

当たり前の確認作業はもちろん、当たり前のことに対してそれ自体がとても豊かな経験であることを意識させる。さらにこの作業を数回繰り返していると、あることに気がついてくる。「はてさて、当たり前のことはそれが当たり前だから豊かなのか。いや、、それ自体が豊かで幸せなことだからこそ、当たり前になっていくのではなかろうか。」この気づきはとても重大だ。
”豊かなことは繰り返されて当たり前になる” でもこれは必要十分条件を満たさない。つまり"当たり前をやっても、豊かさは意識されない” ということだ。長々書いたが、ここで記したいのはこのことである。そんなのは当たり前と言われる程シンプルなことだけど、とても重要なことだ。だから書きたいし、今の僕はこれでモノを見て、考えて、生きているw


"豊かなことは繰り返されて当たり前になる"
"当たり前をやっても、豊かさは意識されない"


豊かな経験は、人々に愛されその愛が蓄積されて場に馴染じみ、当たり前の海に溶けていく。それが何かの拍子にもう一度意識化され顔を出し、少しだけ別の形になり愛され愛が蓄積され場に馴染み当たり前になる。この一方通行のループの繰り返しなのだ。流れには逆らえないし、それでいい。僕らができることは、いつ生まれたかもしれない豊かな経験とそれが当たり前になり、何かの拍子でまた、、、のループを回し続けることだ。僕ら建築家が、場に蓄積した豊かな経験を持続させたいと願うのならば、デザインすべきはこのループを回し続ける原動力、ここでいう”何かの拍子”である。決して!”当たり前”ではないのだ。
そこに気がつかないと、いつまでたっても目の前にあることを踏襲さえすれば街並みや街の活気が保たれるという、郊外の街で行われている陳腐な考え方から脱することはできない。踏襲でつないでもループは回らない。そんなに甘くないよ。
”何かの拍子”とはなにか。それはたぶん奇抜なことではなく、当たり前の新しい組み合わせ方のことだ。いつか読んだ妹島和世特集で、青木淳が妹島の建築手法を、当たり前の組み合わせの中から”新鮮さ”を取り出す手法と評していた。とてもいい言葉だ。奇抜じゃなく新鮮。当たり前の新鮮な組み合わせは、当たり前の海に溶けていた豊かさを意識化させる。そしてまたゆっくりと当たり前の海に溶けていく。妹島やアトリエワン、青木淳など新鮮な当たり前を生み出す素晴らしい建築家は日本にも世界にもたくさんいる。
僕は今ヨーロッパで、豊かな経験を持続させるための”新鮮な当たり前の作り方”を勉強している。このブログでもどんどん出していきたい。