2012年12月27日

被災地で自分にできたこと、できなかったこと



年の瀬になり今年を総括しとかなきゃと思いに至り、1年半ぶりにブログを更新する。
報告書みたくなるのは避けたかったが、どうみても中途半端な報告書になっている。センスがない。読ませる文章は書けそうもないので、最近したことをできるだけ整理しながら記すことに徹したいと思う。眺めていただけるとうれしいです。


2012年10月末、岩手県陸前高田市小友町において小さな建物が竣工した。小友町只出地区に住む100世帯弱によって構成させる只出部落会という地区会のための集会所である。僕はこの件の発案者であり設計者として関わった。本件は、震災後1年半が過ぎた状況において陸前高田市内で被災した数多くの地区会の集会所のなかで、初めて新築工事を果たした案件であるという重要性はもちろんのこと、それに加えて、被災地の建設関係の歪な状況下において建設費を支援してくださった人々の良心によって実現に至るまでのプロセスに、今後につなぐための価値があると考えている。
本件の発案者&設計者の目線で、被災地の現場で自分にできたこと、できなかったことをあげることで、被災地の状況とプロセスを整理したいと思う。






















・2011年3月〜2012年3月
震災後から計画が始まるまでのことを簡単に。
東日本大震災から一年半が過ぎた今、被災地復興の状況はテレビ、新聞等によって伝えられ多くの人が知っている。直接出向いた人も多いと思う。僕も2011年7月に被災地に直接足を運んで自分の眼で見た。「うわぁ。。。」と連発しながらなんとなく呆然として神妙な面持ちで、テレビで何度も見たような写真を撮っておしまい。東京に戻ってから、どうしようもなく非生産的な行動をとってしまったと後悔した。しかしその後も「うわぁ。。」の後が生産できずにさらに半年が過ぎてゆく。
それでも建築設計に携わっている身として、周りでポジティブな活動が起きていることは情報として自然と耳に入ってきた。そういった環境にいたからこそ、自分も何かを。という気持ちとアンテナは保てていた。


・2012年4月中旬
ある企業が大々的に被災地支援をしたいのだが、なかなか進展しない状況のために業を煮やしているという情報を手に入れる。というか飯食ってる時の話として耳にいれる。
「ホホー」っと思いながら、これだな。と思い立つ。「ならばまずは小さな事業から始めて、期を見て本格的な支援をしたらいいのではないか?ということを提案したいから掛け合ってみてよ。」となり掛け合ってもらった結果、企業側から短い時間ながらもプレゼンテーションの機会を与えていただけることとなる。


・4月〜5月初旬
陸前高田市役所にアポをとり、担当職員の方と相談。支援金を想定しながら、出来る範囲での事業の中から優先順位をたてていく。市役所の職員と議論を重ねていくなかで、ある地区会の集会所を復旧することに話がまとまっていった。その理由は後でまとめるが、ここで印象的だったことを書き記しておきたい。
計画当初、市役所の方も僕自身も仮設団地内へ集会所を建てることを優先順位として話をしていた。市役所の方から敷地候補を挙げてもらっていたが、実際に住んでいる方々から以下のような声が聞かれ、計画を変更した。

「支援をしていただく気持ちはありがたいが、集会所を建設することは仮設団地に住む自分達にとって、“ここに永く住み続けなければならない”という宣告をされているようでつらい。」

この言葉によって自分の立ち位置を見直さなければならないと思ったことと同時に、この言葉が被災地の今を映す生の声であると思っている。


・5月中旬
市役所担当職員と計画・敷地を精査し、また建設後の効果を出す。「只出集会所 新築工事」としてまとめ、企業へプレゼンテーションを行なう。結果、支援金をいただけることとなる。
今回の件も含めて、一般的な支援事業が継続するかしないかは、支援者側に後々巡り巡って有益な事柄が帰ってくるような仕組みを構築できるかに掛かっている。言うは易し、行うは難し。このことを考慮しながら計画敷地を選定するのは、心が抉られるような作業だった。

















真ん中の突き出たところが陸前高田市小友町。左は大船渡。


・6月中旬
支援金を頂けることとなり、集会所建設候補地である小友町只出地区の会長さんを中心に議論を重ねていく。場所はいつも陸前高田市役所内の小さな会議室。なぜか。もちろん集まれる場所がないからである。高台移転の場所決め等、行政から地区会へ下りて来る業務はたくさんあるのに、集まって話し合いが出来る場がどこにもないから、なかなか進まない。集会所の役割は日常の交流の場だけではない。
集まる場所がないから、高台移転の話ができない。地区単位で決まらないから、全体が決まらない。という状況が今も続いている。ちなみに陸前高田市内だけで38ヶ所の地区会集会所が流され、2012年10月の時点で復旧されたものは1つもなかった。

市役所の会議室で話を進めて行く


・7月
集会所の設計を進めて行く一方で同時に、工事を請け負ってもらう工務店を探していた。計画当初は地元の工務店に請け負ってもらうことを優先的に考えていたが、震災後のいわゆる復興バブルによって、どの工務店も仕事がいっぱい。また支援金も非常に限られていたために、請け負ってくれる工務店は最後まで見つけられなかった。さらに個人的な見解として、気仙大工発祥の地である小友町では人々の日常的なつながりや信頼関係の延長として仕事が成立する土壌であるために、設計者である僕に現地の地縁がなかったことが工務店探しが困難を極めた理由の1つであると思う。もっとゆっくりじっくり行なえば良かった。と反省。


・8月中旬
工務店探しが難航するにつれ、工務店に工事を委託することを諦めて自分で現場施工する方法を検討していた。そんな中、岩手県岩手町にある工務店を紹介していただき、会いに行きお話をした結果、後日工事を請け負ってもらえるという返事をいただく。
今思っても、この工務店が承諾してくれなければ、計画が頓挫していた可能性は大きくあった。飛び上がる程のありがたさと同時に自分の無力さを痛感した。
次回はもっと、ゆっくりじっくりと。

・9月初旬
陸前高田市小友町只出地区において、只出部落会に出席させていただく。この総会で初めて地区の人々に集会所新築の件を正式に発表させてもらった。設計者として紹介していただき、設計概要を説明させていただいた














部落会総会にて集会所設計概要を説明


・9月中旬
東京にて実施設計と確認申請の準備。
木製建具を使用することを計画していたのだが、予算の都合上難しいとのこと。
ならば中古!!と探していたところ、神奈川県逗子市にある桜花園さんから木製建具の支援のお声掛けをいただいた。廃校になった中学校の中廊下で使っていた建具や、民家のフラッシュ扉など、集会所で使うすべての建具を支援していただいた。その規格に合わせて設計修正を行う。困ったら困っていることを正直に打ち明ける。大事だと思う。

















本プロジェクトで使用させていただいた神奈川県逗子市の古建具。中には、廃校となった中学校の教室で使われていた建具もあり、おー復活おー復活でワクワクした。笑


設計に関して、今後の指針になりそうなことを簡単にまとめておく。

・床面積について
床面積が50㎡を超えないようにすることがとても重要。
これを超えるか超えないかでいろいろな規制緩和があるというのは皆さんご存知のところ。
・仮設申請について
岩手県では仮設申請というものは基本的にない。(その他の県のことは良く知らない)だからくい基礎等にする理由は予算の都合でしかない。本件では、長い間(上ものが壊れるまで。)使いたいという話があったことから、予算上とても厳しかったが、コンクリート布基礎にしている。
・津波に使った場所について
本件の敷地は実際に津波に浸かった場所である。津波に浸かった場所は今後どうなるのか。全体のことはまだ良く調べていないが、本件の場合、2年後を目安に国に買い取られる予定である。その後、地区会でその土地を国から借りることで集会所使用を継続することが決まっている。





・9月初旬
本件の地鎮祭を行った。

・9月中旬〜10月末
只出集会所新築工事が着工。現場期間中ずーっと、地元の方々の家に点々と泊まらせてもらった。みんなの孫のようにかわいがってもらった。
現場ではわからないことだらけで、色々な人に面倒をかけた。みんながやさしすぎて、そのやさしさに平気で甘えてしまった自分を恥じたい。
10月末無事竣工。
























以上が本件の流れ。
震災後1年半が過ぎた今でも、現地には奇麗事を言うのでは済まされない状況があって、それを継続的に支援するボランティアの方々の姿を見ることができる。心の底から尊敬します。国内外含めてとおーい場所からなんやかんや言うのは簡単だけど、実行する人は黙ってやるんだ。本当にかっこいい。
僕にはそんなかっこいいことはできないみたいだから、せめて、やってから、ぎゃーぎゃー言う人をめざそう。












すぐ近くに海がみえる。

幸運なことに、多くの良心に巡り合い、なんとか完成させることができた。助けてもらった身であるからこそ『自分にできることはなにか。また自分にどこまでできるのか。』を考えながら計画を進めてきた。『どこまでできるのだろう』なんて、とんでもない。プロにあるまじきスタンスである。

だから僕にはプロセスを多くの人に見てもらう役目があるし、この件が今後少しでも多くの人の『自分にできること』の枠を広げるための勇気になっていただければとてもうれしい。そうでなければ申し訳ない。
来年は計画を継続していける仕組みを構築していく年に。
もっと役にたつ人間になりたい。
とりあえず今年のまとめとして。