2011年3月21日

必要な時間。それを飛び越える光の速さ。

すべてを無くした人たちのために、そこに根付いていた経験とか記憶とかの質を含んだ復興を。超光速で。簡易テントとかじゃない。
今回は時間と質の両立というジレンマに対するただのもやもや。

大地震から早くも一週間がたつ。日本から遠く離れた場所にいても情報は入ってくるので、ほぼリアルタイムで地震と津波が招いた被害の経過を追っている。この地震は日本で起きていて、震源も広域なので、今回の地震を人ごとのように見ている人は少ないのではないかと思う。僕の祖父母と叔母家族は岩手県の宮古市に住んでいる。今回の地震と津波によって街の多くが無くなった。命があってよかったというのはもちろんのことである。が、命あるからこそ、彼らが暮らしてきた街がなくなったことの意味の深さが胸に突き刺る。
書いておかないと前に進めないので、今は無理矢理書く。建築になにができるかということと同時に、そもそも僕らがしていることとは何のためか、誰のためなのか。を自問する。今回に限って答えなんてない。
書いてみた後、もう順番がぐちゃぐちゃだったので強制的に前置きを挿入。

モノを作ることには、現在の場と人の中にある豊かな経験への批評とそれを更新続けるための新鮮さが求められると同時に、それが20年30年後にどんな意味をもつのかを見通すことが求められる。反語的にかつ極端に言えば、僕らのやっていることが成就するには、絶対的に時間が必要なのだ。今現在にできたモノで僕らが評価できていることは、それがもつ将来への可能性にすぎない。




”僕らはモノを通して、長い時間をかけてそこに根付くであろう幸せを想像している”
そう。だからこそ今、本当に息苦しい。時間がない。





僕の生まれ故郷ともいえる場所。
覚えてないけど、僕はそこで生まれた。僕が生まれた80年代後半には漁港街として栄えたこの街も、今ではご老人たくさん、駅前に大きなスーパー、商店街も廃れて、ビジネスホテルがボーン!!..........とまぁなんともイメージ通りの衰退を描いていた。
でも、僕はそれはそれでいいと思っていた。廃れると言っても、商店街にはそこに住む人々の間での画一された需要と供給が存在してるし、駅前に巨大なスーパーができたからって、そこで働く人も皆顔見知りのような。何万という人が暮らしているけど、街に住んでいる人々ならお互いがお互いのことを何でも知っているという雰囲気が満ちてた。”○○高校で成績が一番のあそこの家の息子が○○大学に進学した”とか”あそこの魚屋の奥さんと一緒にお茶した時に聞いたんだけど...."とか。街全体が暖かい愛で満ちていた。街に住人の経験記憶が染み付いていた。確かに人は減ってるし、高齢化は進んでいるし、インフラも整備しきれているとは言えないけど、次の子世代とその次の孫世代はいるし、幸せを一歩一歩継続できる地盤は確かにあった。
話は少しそれるけど、だからこそ地方へのある種の改善のための提案を見るたびに思うことがある。
「それは誰のためを想っての危機感なんだろう」
僕は、”コンパクトシティ”等の話に同感するところがある一方で、その話が持つあまりにも長い時間には想像力が追いつかない。勉強もしてるし、楽観視もしてないけど、あまりその危機感に実感がないのだ。国の為か。そうだよね。わかっています。でもごめんなさい。僕が考えられることは、想像力でかすかに見れる誰かの為の50年後より、身の回りに存在している人と場所の為の20年後です。そんな建築家が続いていけば、経験も記憶も続いていくよ。



....と最初の前置きを含めて、僕の想像できる時間も、創造するに必要な時間もそんなもんだ。でもなぁ20年。今回ばかりはそれすらも待てないよ。すべてを無くした人たちのために、そこに根付いていた経験とか記憶とかの質を元通りにしたい。超光速で。

僕のような学生が今考えないといけないことは、簡易テントを建てるということだけではない。超光速で行われるべきである復興の中に、今まであったはずの経験と記憶の質をどう組み込めるのかということだ。
時間と質の両立。アレグザンダーが一度立ち向かったこのジレンマに、もう一度。
考えよう。考える。

2011年3月8日

オルタからリートフェルト。近代建築の船出。勇気と国境。 

近代建築が生まれるきっかけと、それを生み出した勇気の連鎖の話。少し長いが、近代への流れがざっと掴めると思うので、さらっとお願いします。

僕が今、留学しているオランダ、その隣にあるベルギー。自分で言うのもなんだが、この2つの国、まあぁ〜地味な国である。旅行で行きたい場所として真っ先に挙がるパリ、ミラノ、ベルリンなどの観光スポットはない。飯に関して言えば、ベルギーはうまい。オランダは.....うん。まずい。すごくまずい。美術はすごいよ。レンブラントにフェルメール、ゴッホにエッシャー。まぁでも総じて地味である。女の子の卒業旅行で名が挙がることはまずないだろう。先日パリに行ったら、うじゃうじゃ日本人女子がいてびっくりしたものだ。
しかしこの2つの国は建築の分野で、近代建築、つまり現在の僕らの生活に直接影響を与えた建築を生み出した礎を気づいた、とても重要な国。これはホント。近代建築の父はコルビジェでもミースでも、ましてやグロピウスでもないのだよ。オルタとリートフェルトなのです、と言ってみる。このことは、かの有名建築史家、藤森照信先生の本にも記述されてるので、一学生の戯言が!と思われた方も最後までご笑読あれ。あと、建築学生は旅行でオランダとベルギーには必ず行きましょう。その理由をこれから。


さて、まずはオルタから。Victor Horta。アール・ヌーボの時代に生き、1890年代から20世紀初頭にかけて数多くの作品を世に生み出したベルギー建築界のドン。いや彼の作品の輝きを見れば、当時のヨーロッパの建築界は、彼とオーギュスト・ペレ、少し遅れてペーター・ベーレンスという布陣で回っていたとも言える。まぁ、そのくらいすごい方。そして、数少ない現存する作品の中で、彼の力量を最も知ることができるのはオルタ自邸(現名:オルタ美術館)である。
           内部は撮影不可なので、写真はwikipediaから拝借。 
この作品の個人的な感想は今回は割愛する。良かっただのの意見はいくらでも言えるが、今回は全体の流れの中にオルタを位置づけることを優先。そもそも、建築におけるアール・ヌーヴォとはなんぞやという話から。よく言われるのは、「鉄という新しい材料の加工技術が向上し、その材を先行して新しい作品を生み出していた芸術分野に習い、装飾として建築に取り込んだ。」という話。その通りだけど、この文章からは、建築家の新しいモノへの好奇心で....という、なんともおマヌケな側面が全面に出ている。言い方悪いよな。これでは、アール・ヌーヴォは建築家が成したとても幸せな10年間としか思われない。(そう記述された文章やコメントをあきれる程見かける。マジで言ってんのかよ。建築なめんな。)
そうではない。 

知っての通り、現在私たちの周りに建つ建築は、それぞれが意味論理を含みながら、とてもスマートに建っている。これは構造分野の発達に起因する部分が大きい。裏を返すと、本来、建築は構造物であり、原始の時代には建物の支持構造が建築のほぼ唯一の問題点であり主題であった。建築を考えるということは、構造を考えることとほぼ一致していたのだ。それが技術や材料の向上により、支配的であった構造の問題はその重要度を薄めていき、「主題」は自然に、その存在証明(意味の創作)へと変動していった。
アール・ヌーヴォは、その数ある変動期の一つで起きた活動である。オルタらはこの中で、構造から切り離された材の在り方について思考した。人間と材との関係性。人間の生活に材を沿わせるという考え方。さらにオルタらは、その前に世界を支配していた古典主義(古典的なものを尊重しようという考え)をどうにかして打ち破ろうとしていた。材料の発達という、建築創作の「主題」をさらにその存在証明へと向かわせる状況の中で、さらに大きな命題を自らに課したオルタ。
つまり、アール・ヌーヴォにおける彼らの活動は、「自らの創造の存在証明を得くと共に、構造から切り離された材を人間に沿わせるという思想を元に、構造故に古典建築が持った神への精神性を真っ向から否定しようとした活動」であった。ふむw

結果は知っての通りである。彼の作品の多くは、アール・ヌーヴォの終焉と共に壊されていくこととなる。なぜか。それはおそらく、彼の作品がもつ言葉が国境を超えることができなかったからである。彼の思想は材と人間の関係の近さという点で古典を打破しようとしたが、古典主義時代の建築もそれを否定したアール・ヌーヴォの建築も姿の違いはあれど、どちらも"土着的"であったことに変わりはなかった。その地域での在り方、建て方があり、建築はその土壌の上に建つということを強く意識していた。オルタの作品は思想も姿も、どこまでも"土着的"でどこまでも人間的であり続けた。(かっこよす。)だから、同じく姿は"土着的"でありながら、その思想が”国際的”に成熟していた古典主義には勝つことができなかった。




それから時間は少しだけ流れる。(藤森さんの見解ではこの間にワンクッション。でもまぁ、長くなるし実際に見学したことがまだないので今回は先を急ぐ。)その隣国、オランダで、リートフェルトが立ち上がる。(嘘うそw。すでに生まれてるし。まぁ面白く。)

リートフェルト。Gerrit Thomas Rietveld。オランダで生まれたデ・ステイルという運動に所属し、家具や建築を担当する。彼らはすでに起きていたcubismなどと少し近いけど、直線、面、対角線などの幾何学を使って、人間の生活、動き、つまり人間の感情を包み込む作品を作ろうと活動を行った。まず有名なのが、red&blueと呼ばれる椅子。そしてシュレーダー邸。



               ちなみにこれも内部撮影不可。なので他サイトさんから拝借

幾何学を使って、人間の生活、動き、つまり人間の感情を包み込む作品を作ろうとする思考。この考え方こそが、オルタらがなし得なかった、世界中に蔓延した古典主義を打ち破る程の”国際性”を獲得することになる。
なぜか。

彼らは、人間の感情を包み込むという、これでもかという程のねちゃねちゃした”土着的”な考えを持ちながら、誰もが学校で習う幾何学という世界基準の言語を使って、それを実践した。つまり、幾何学を用いることで、彼らの思想は短期間(光程の早さでw)で国境を超えることが可能となった。じわじわと長い時間をかけて”国際性”を得てきた古典主義という考え方を、幾何学を使うことで短期間で乗り越え、共有可能なものとした。ここに彼らのスゴさがある。ちなみに、この幾何学というワードは、建築を語る上で必要な"構成"という言葉を与えた最初である。コルビジェ、ミースはこれにものすごい影響を受けて彼らのキャリアをスタートさせた、とは藤森先生の見解。人間の生活を考えながらも、古典を打破するためにあえて"土着"と切り離して作られたこの外観。ここにオルタから続く次世代を切り開いた勇気の連鎖をみることができる。





”構成”という言葉を獲得した建築家達は、コルビジェ、ミースを中心にこの後、近代建築大航海時代へとうつっていく。
ここには、既定を捨て国境を越えた言語を獲得し、その後の時代に決定的な影響を与えた建築家の勇気が映し出されている。

2011年3月5日

当たり前の豊かさ。豊かな当たり前。と、そのループ。

オランダに来てから半年が経過した。この半年間、今まで目にしたことがなかった新しいことをたくさん経験してきた、がそれと同時に日本にいる時に当たり前にしてきたことができない不自由さをたくさん感じてきた。留学当初、まずすべての人々に立ちはだかる言語の壁。互いにすべてを伝えられないコミュニケーションとそれに起因する事務的な手続き等の不一致。あぁすべての問題は言語の壁を突破すれば解決するはずと思い、ようやく言語の壁が崩れてきた頃に気がつく、”そもそも”の社会構造の違い。日本とはまるで違う。こちらではすべてのことを能動的に、自分から突っ込んでいかなければ何も進まないし何も生まれない。わかりやすいのは、大学での授業と試験のこと。日本では試験は授業を受講していれば、期末又は中間に自動的にやってくる。こちらではそうはいかない。授業と試験はそもそも別で、授業は授業で勝手に受けていいし、試験は受けたければ受けていい。しかし ”自動的にやってくる”ということは絶対にない。どの授業も試験期間が近づくとそろって「次の試験を受ける意思があるのならば、サイトにて受験のEnrollをしなさい。」というお知らせが入ってくる。Enrollがなければもちろん受験することはできない。学生は授業を受けさせてもらっている、学ばせてもらっている立場であったことを確認させられる。

さて前置きが長くなったが言いたいことは、オランダに来て半年間、これまで無意識的に行っていた行為あるいは役割をもう一度意識化させる、つまり「当たり前の確認」という作業を意識的に(半ば強制的にだけど)繰り返してきたということだ。留学とは「当たり前の確認」作業に尽きると言っても過、、過言か、、、いやここは言いきろう。過言ではない。
ここまでだと、「んだよっ!お前は確認作業しに海外いってんのかよ!」と言われそうだが、そうではないのでもう少しだけご辛抱を。

当たり前の確認作業はもちろん、当たり前のことに対してそれ自体がとても豊かな経験であることを意識させる。さらにこの作業を数回繰り返していると、あることに気がついてくる。「はてさて、当たり前のことはそれが当たり前だから豊かなのか。いや、、それ自体が豊かで幸せなことだからこそ、当たり前になっていくのではなかろうか。」この気づきはとても重大だ。
”豊かなことは繰り返されて当たり前になる” でもこれは必要十分条件を満たさない。つまり"当たり前をやっても、豊かさは意識されない” ということだ。長々書いたが、ここで記したいのはこのことである。そんなのは当たり前と言われる程シンプルなことだけど、とても重要なことだ。だから書きたいし、今の僕はこれでモノを見て、考えて、生きているw


"豊かなことは繰り返されて当たり前になる"
"当たり前をやっても、豊かさは意識されない"


豊かな経験は、人々に愛されその愛が蓄積されて場に馴染じみ、当たり前の海に溶けていく。それが何かの拍子にもう一度意識化され顔を出し、少しだけ別の形になり愛され愛が蓄積され場に馴染み当たり前になる。この一方通行のループの繰り返しなのだ。流れには逆らえないし、それでいい。僕らができることは、いつ生まれたかもしれない豊かな経験とそれが当たり前になり、何かの拍子でまた、、、のループを回し続けることだ。僕ら建築家が、場に蓄積した豊かな経験を持続させたいと願うのならば、デザインすべきはこのループを回し続ける原動力、ここでいう”何かの拍子”である。決して!”当たり前”ではないのだ。
そこに気がつかないと、いつまでたっても目の前にあることを踏襲さえすれば街並みや街の活気が保たれるという、郊外の街で行われている陳腐な考え方から脱することはできない。踏襲でつないでもループは回らない。そんなに甘くないよ。
”何かの拍子”とはなにか。それはたぶん奇抜なことではなく、当たり前の新しい組み合わせ方のことだ。いつか読んだ妹島和世特集で、青木淳が妹島の建築手法を、当たり前の組み合わせの中から”新鮮さ”を取り出す手法と評していた。とてもいい言葉だ。奇抜じゃなく新鮮。当たり前の新鮮な組み合わせは、当たり前の海に溶けていた豊かさを意識化させる。そしてまたゆっくりと当たり前の海に溶けていく。妹島やアトリエワン、青木淳など新鮮な当たり前を生み出す素晴らしい建築家は日本にも世界にもたくさんいる。
僕は今ヨーロッパで、豊かな経験を持続させるための”新鮮な当たり前の作り方”を勉強している。このブログでもどんどん出していきたい。

人に伝えること。最初の関門。

blogを始めます。人に読んでもらうものとして。
日々考えていることは紙媒体に記述しておく質なので、このサイトはそれを発信する場とします。読んでくれた人々の頭に少しの刺激を与えられたらいいと思います。

さてblogを始めるにあたって、「です。ます。」「だ。である。」どちらの語尾を採用しようかで、まず迷う。自分の日記ならば「だ。である。」でいいが、人に読んでもらうならば「です。ます。」だろうとも思う。もうすでにここまでの文章で、語尾の使い方がめちゃくちゃになっている。がそれで悪いこともなかろうというのが、僕の意見。
この問題はブログに限らず、小学生の読書感想文にまで適用するレベルの共有性を有していると思うので、ぐしゃくしゃになっててもご愛嬌ということにしたい、してほしい。
書き手側の熱の入り方を計るバロメータとでも思ってもらえたら。

blog始めます。