2011年3月8日

オルタからリートフェルト。近代建築の船出。勇気と国境。 

近代建築が生まれるきっかけと、それを生み出した勇気の連鎖の話。少し長いが、近代への流れがざっと掴めると思うので、さらっとお願いします。

僕が今、留学しているオランダ、その隣にあるベルギー。自分で言うのもなんだが、この2つの国、まあぁ〜地味な国である。旅行で行きたい場所として真っ先に挙がるパリ、ミラノ、ベルリンなどの観光スポットはない。飯に関して言えば、ベルギーはうまい。オランダは.....うん。まずい。すごくまずい。美術はすごいよ。レンブラントにフェルメール、ゴッホにエッシャー。まぁでも総じて地味である。女の子の卒業旅行で名が挙がることはまずないだろう。先日パリに行ったら、うじゃうじゃ日本人女子がいてびっくりしたものだ。
しかしこの2つの国は建築の分野で、近代建築、つまり現在の僕らの生活に直接影響を与えた建築を生み出した礎を気づいた、とても重要な国。これはホント。近代建築の父はコルビジェでもミースでも、ましてやグロピウスでもないのだよ。オルタとリートフェルトなのです、と言ってみる。このことは、かの有名建築史家、藤森照信先生の本にも記述されてるので、一学生の戯言が!と思われた方も最後までご笑読あれ。あと、建築学生は旅行でオランダとベルギーには必ず行きましょう。その理由をこれから。


さて、まずはオルタから。Victor Horta。アール・ヌーボの時代に生き、1890年代から20世紀初頭にかけて数多くの作品を世に生み出したベルギー建築界のドン。いや彼の作品の輝きを見れば、当時のヨーロッパの建築界は、彼とオーギュスト・ペレ、少し遅れてペーター・ベーレンスという布陣で回っていたとも言える。まぁ、そのくらいすごい方。そして、数少ない現存する作品の中で、彼の力量を最も知ることができるのはオルタ自邸(現名:オルタ美術館)である。
           内部は撮影不可なので、写真はwikipediaから拝借。 
この作品の個人的な感想は今回は割愛する。良かっただのの意見はいくらでも言えるが、今回は全体の流れの中にオルタを位置づけることを優先。そもそも、建築におけるアール・ヌーヴォとはなんぞやという話から。よく言われるのは、「鉄という新しい材料の加工技術が向上し、その材を先行して新しい作品を生み出していた芸術分野に習い、装飾として建築に取り込んだ。」という話。その通りだけど、この文章からは、建築家の新しいモノへの好奇心で....という、なんともおマヌケな側面が全面に出ている。言い方悪いよな。これでは、アール・ヌーヴォは建築家が成したとても幸せな10年間としか思われない。(そう記述された文章やコメントをあきれる程見かける。マジで言ってんのかよ。建築なめんな。)
そうではない。 

知っての通り、現在私たちの周りに建つ建築は、それぞれが意味論理を含みながら、とてもスマートに建っている。これは構造分野の発達に起因する部分が大きい。裏を返すと、本来、建築は構造物であり、原始の時代には建物の支持構造が建築のほぼ唯一の問題点であり主題であった。建築を考えるということは、構造を考えることとほぼ一致していたのだ。それが技術や材料の向上により、支配的であった構造の問題はその重要度を薄めていき、「主題」は自然に、その存在証明(意味の創作)へと変動していった。
アール・ヌーヴォは、その数ある変動期の一つで起きた活動である。オルタらはこの中で、構造から切り離された材の在り方について思考した。人間と材との関係性。人間の生活に材を沿わせるという考え方。さらにオルタらは、その前に世界を支配していた古典主義(古典的なものを尊重しようという考え)をどうにかして打ち破ろうとしていた。材料の発達という、建築創作の「主題」をさらにその存在証明へと向かわせる状況の中で、さらに大きな命題を自らに課したオルタ。
つまり、アール・ヌーヴォにおける彼らの活動は、「自らの創造の存在証明を得くと共に、構造から切り離された材を人間に沿わせるという思想を元に、構造故に古典建築が持った神への精神性を真っ向から否定しようとした活動」であった。ふむw

結果は知っての通りである。彼の作品の多くは、アール・ヌーヴォの終焉と共に壊されていくこととなる。なぜか。それはおそらく、彼の作品がもつ言葉が国境を超えることができなかったからである。彼の思想は材と人間の関係の近さという点で古典を打破しようとしたが、古典主義時代の建築もそれを否定したアール・ヌーヴォの建築も姿の違いはあれど、どちらも"土着的"であったことに変わりはなかった。その地域での在り方、建て方があり、建築はその土壌の上に建つということを強く意識していた。オルタの作品は思想も姿も、どこまでも"土着的"でどこまでも人間的であり続けた。(かっこよす。)だから、同じく姿は"土着的"でありながら、その思想が”国際的”に成熟していた古典主義には勝つことができなかった。




それから時間は少しだけ流れる。(藤森さんの見解ではこの間にワンクッション。でもまぁ、長くなるし実際に見学したことがまだないので今回は先を急ぐ。)その隣国、オランダで、リートフェルトが立ち上がる。(嘘うそw。すでに生まれてるし。まぁ面白く。)

リートフェルト。Gerrit Thomas Rietveld。オランダで生まれたデ・ステイルという運動に所属し、家具や建築を担当する。彼らはすでに起きていたcubismなどと少し近いけど、直線、面、対角線などの幾何学を使って、人間の生活、動き、つまり人間の感情を包み込む作品を作ろうと活動を行った。まず有名なのが、red&blueと呼ばれる椅子。そしてシュレーダー邸。



               ちなみにこれも内部撮影不可。なので他サイトさんから拝借

幾何学を使って、人間の生活、動き、つまり人間の感情を包み込む作品を作ろうとする思考。この考え方こそが、オルタらがなし得なかった、世界中に蔓延した古典主義を打ち破る程の”国際性”を獲得することになる。
なぜか。

彼らは、人間の感情を包み込むという、これでもかという程のねちゃねちゃした”土着的”な考えを持ちながら、誰もが学校で習う幾何学という世界基準の言語を使って、それを実践した。つまり、幾何学を用いることで、彼らの思想は短期間(光程の早さでw)で国境を超えることが可能となった。じわじわと長い時間をかけて”国際性”を得てきた古典主義という考え方を、幾何学を使うことで短期間で乗り越え、共有可能なものとした。ここに彼らのスゴさがある。ちなみに、この幾何学というワードは、建築を語る上で必要な"構成"という言葉を与えた最初である。コルビジェ、ミースはこれにものすごい影響を受けて彼らのキャリアをスタートさせた、とは藤森先生の見解。人間の生活を考えながらも、古典を打破するためにあえて"土着"と切り離して作られたこの外観。ここにオルタから続く次世代を切り開いた勇気の連鎖をみることができる。





”構成”という言葉を獲得した建築家達は、コルビジェ、ミースを中心にこの後、近代建築大航海時代へとうつっていく。
ここには、既定を捨て国境を越えた言語を獲得し、その後の時代に決定的な影響を与えた建築家の勇気が映し出されている。

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