2011年5月31日

定着と飛躍。Le Corbusierと伊集院光と桜井和寿。

『ラジオで”松の木におじやぶつけたような顔のブスな女がさぁ....” って言うと、リスナーの想像する顔は、自由度がすごい高いけど、ゴジラ松井が女装したようなのを想像するのが多いんじゃないかな。もっとすごいのを想像できるならばさらにすごい。それぞれの頭にある定型によって、なんとなくある方向に想像力が働く感じでいてバラバラな感じ。松の木みたいに肌がごつごつしてて....とか全部説明しちゃうんじゃなくて。その共有できて”いそうな!”瞬間が提供できたらすごい幸せ。』 by伊集院光

伊集院光の真骨頂。松の木におじやぶつけたような顔のブスな女って。はは最高。まさにその通り。この言葉には、受け手の知性があぶり出すメタな世界での意味のさらなる飛躍に期待しているクリエイターとしてのとても真摯な姿勢を、彼特有のニヒリズムと交えて解いている。
伊集院光のラジオ番組を聴いている人はたくさんいると思う。僕も結構なヘビーリスナー。中学2年からずっと聴いている。彼の言葉とその語り方は僕の人間形成に結構な影響を与えてくれている。中高時代、録音した音源を友達にくばって授業中に聴いていた。そして、僕含め友達は全員現役受験に失敗した。笑 浪人で見事リカバーし皆結構すごいところで活躍しているのをみると、やっぱりねって思う。笑
さてそれに対して。





『僕は星座で言うと、星を並べたいって思ってて。例えばさそり座だったら、さそりに見えそうな所に星を配置するのが僕の仕事で、さそりの絵を描くのはリスナーだと思っている。だから、聴いた人皆が1つのさそりを想像しちゃうような星の配置は避けようと思っている。』 by桜井和寿

こちらは桜井さんの言葉。いやぁ、同じ感覚を言っているのにこうも違う。でもいい言葉。さらにこっちの方がわかりやすいっていう。《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》という型を用意する。そこにまずはある物事を定着させて、その先は想像でどこまでもいってもいいよっていうこと。定着からの飛躍。飛躍のための定着。だからクリエイターは何も用意しなくていいってことでは絶対にない。定着部分をデザインし用意する。それが仕事。
彼は、最近になって人々と共有できる曲をとても意識的に書いていると言っている。1つの曲を、個人の中でいろんな解釈として咀嚼した後にできる何十万の意味を持った1つの曲。僕はHOME以降のMr.childrenがたまらなく好きだけど、そんなことと関係しているんだろうなぁ。






伊集院のいう《松の木におじやぶつけたような顔の女》と、桜井のいう《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》というのは想像の飛躍の前段階、ある慣習的な部分を定着させる器のことを示す。つまりなにかを設計する段階で必要な図式のことを示している。
慣習的な物事を定着させる器としての図式の提出と、そこからの想像の飛躍のための余地をどう含ませて具現化していくかを示している。
超一流のクリエイターである2人の言葉。
図式とは物事をわかりやすく説明するための図のことである。何となくお互いが共有想像できる、概念として明瞭性をもったものが図式である。なにかを設計する場合、最後に形として残るにしろ残らないにしろ、最初に図式を提出することが必要となる。ってかデザインは図式なしにはできない。






慣習的な物事を定着させる器としての図式の提出と、そこからの想像の飛躍のための余地をどう含ませて具現化していくか。
さて、前回の続き。コルビジェの晩年の名作、ラ・トゥーレット修道院の感想と思ったこと。上に述べた言葉を交えて考える。
僕の中では前述の伊集院と桜井の言葉とこの建築が共振しているのだ。
最近の学校。こっち来て7ヶ月目にしてスタジオのことで先生にめっちゃ怒られた。まぁ全面的に原因はこちらにあるので何も言い返せない。英語で怒られたという事実の新鮮さに多少驚き半分嬉し気味の顔をしていた僕を、周りのやつはドMとしか思わなかっただろう。笑
ラ・トゥーレット修道院。前回書いた通りだけど、カトリック系の修道士達の場所。聖堂、食堂、勉強室、そして最低限のスペースとしての個室がある。それが中庭を中心とした《回廊型プラン》の中に配置され全体が作られている。ここまではシトー会系修道院と似ているが、その決定的な違いは中庭の作られ方にある。
この修道院は南に下がっていく丘の上に建っている。ピロティーを使って、その状況から建築全体を切り離す操作を行うことで、《回廊型プラン》の中心である中庭と建物外の緑地の接続が起きている。

ラ・トゥーレット修道院の中庭。土地の傾斜と列柱によって作られるピロティー空間。中庭は外の緑地と連続しているため
風が抜けてホント気持ちがいい。土と緑。そしてコンクリート。光と陰。生をビンビン感じる場所。

シトー会系修道院の中庭。土地に傾斜があるののの、それは建築内で解消されている。フロアレベルを土地のレベルに沿って変化させることで中庭の固有性は確保される。あとは前回の通り。


さらに、シトー会系修道院では中庭にあるのは、土と緑と空。それらが装飾の施された回廊の壁に囲まれているのに対し、ラ・トゥーレット修道院の中庭にはその他に、建物の基本構成とは独立した様々な言語が意図的に付け加えられている。

 ラ・トゥーレット修道院の中庭。土、緑、空の他に、全体の構成からは必要性を感じない螺旋階段の円筒や、三角に尖せ物量を感じるハイサイドライト。それに寄せ棟型の屋根をもつ祈祷室が中庭に面して、確固たる形をもった物ものがぼこぼこと出現している。

これらの中庭を中心として起きている2つの事項が、この建築の明瞭性を濁らしている。シトー会系修道院が持っていた定型《回廊型プラン》の建築とはかなり違った印象を持つ。ラ・トゥーレット修道院を、修道院建築に多くみられる《回廊型プラン》型建築としては複雑でわかりづらいものとして理解・回収してしまっては凄くもったいない。
僕の中では前述の伊集院と桜井の言葉とこの建築が共振しているのだ。

ここでもう一度、上述の”定着としての図式とそこからの飛躍”の話を出してみる。僕がみた修道院建築(ラ・トゥーレット修道院と3つのシトー会系修道院を含めて)でいう図式とは、《回廊型プラン》のドーナツみたいな輪といえる。そうしよう。そこから必要とされる聖堂、食堂、寝室、勉強部屋がその輪に纏わりつくようそれら互いの関係の中で整理されて配置される。その整理の中で閉鎖的な中庭の位置づけが決まっていく。修道士の一日の主な活動である食事、勉強、祈り、睡眠のサイクルを《回廊型プラン》の中に定着させることでこの型が定型とされていったのだろう(たぶん遥か昔に)。

そうして時間をかけて作られた生活のサイクルを定着させる器としての図式を採用し、その図式《回廊型プラン》を空間に言及するまでに大事に育て上げ具現化することで、建築と人の幸福な関係を作り出しているのがシトー会系修道院だと思う。概念としての明瞭性(わかりやすさ)と体験時の身体が重なり合う安心感がある。
それに対して、ラ・トゥーレット修道院は、《回廊型プラン》の輪という図式は採用しているものの、それをとても一見雑にとてもゆるーく具現化する。上記の中庭のことと、なにより回廊に多くの独立した言語が張り付いているために一見わかりにくい。
もはや体験時に回廊型であることを忘れてしまえば、いろんなルートが考えられる。もうぐちゃぐちゃ。がしかし、そうと思ってプランを見返してみると、実にうまく回廊型プランを咀嚼していてそれぞれの場所が回廊を中心に奇麗に配置されている。とても不思議ことが起こっている。回廊型としても、そうではないものとしても、いろいろな人がそれぞれで解釈し使える、でも絶対に回廊型プランといえる、《ゆるい回廊型プランっぽいもの》を見事に作り出している。







《ゆるい回廊型プランっぽいもの》、
《松の木におじやぶつけたような顔》と
《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》。
このことこそ、今回書きたいこと。
《松の木におじやぶつけたような顔》、 《さそりに見えそうな所に星を配置したもの》を用意して、どんなブスか、またはさそり自体の絵は聞き手に委ねる。
《ゆるい回廊型プランっぽいもの》を用意して、その使い方は使い手に委ねる。
さらに、解釈の自由度が高い中で、そこに多くの人がある程度の絵を共有できる可能性をきちんとみていること。これが最も重要。







図式を表現しすぎないこと。余地の作り方。
図式を用意した後に、そこからの別の解釈ができる隙を作るということ。
図式は必ず必要ある。僕らの体も頭も、経験した枠に定着させてからではないと、新しいことを新しいことも認識できない。図式なしには、デザインすら始まらない。まずはその枠=図式を用意すること。それ自体がすでに持っている意味を咀嚼すること。その次に、ものを具現化させる段階でどう使うか。その段階で図式を強く表現しすぎない、または少しずつ壊していくことで、新たな意味を使い手、読み手側が吹き込める余地を作ること。
そして、うっすらと多くの人が共有している可能性が見て取れること。それを望むこと。

このあるグルーブ感が発揮された時、おそらくそのものは永遠の命を手に入れる。
そう思う。








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