2011年5月18日

建築の型。世界と接続する現象。

一ヶ月近く間があいたな。やっぱり。自分がマメな性格でないのはよくわかっているよ。思えば小中高とも成績表にいつも”明朗快活”ってキーワードが並んでいた。大雑把な性格を表す丁寧語なんだろうなぁ、あれ。
ともあれ、4月に見学したコルビジェ先生の晩年の名作、ラ・トゥーレット修道院Couvent de la Touretteを見学したときの感想と思ったことを書いておこうと思ったけど、書き始めたら脱線したので、今回はシトー会修道院だけ。そこから次回Couvent de la Touretteに接続しませう。
最近生活サイクルが狂いまくってる。夜の10時近くまで明るいと体内時計がもう訳わからなくなる。インターンのためのポートフォリオ、ノリで出したコンペ。あとは、最近ダメだしだらけのスタジオ。時間あるはずなのに全然時間がない。こっちきてから時間の使い方がへたになっている。
          ラ・トゥーレット修道院。丘の上から下界の街を見下ろすように、建っている。でもこれはまた次回。
この建物は言わずもがな、カトリック系の修道士の住処であり聖堂である。修道士は一日の大半をそして人生の大半をこのコンクリートの箱の中で過ごしている。僕らが宿泊したその日もそうだった。ここには聖堂があり、食堂があり、勉強室があり、そして最低限のスペースの寝室群が用意されている。そんな修道士の生活の場が、回廊型プランの中に定着している。全体の内部構成はとても明快でわかりやすい。回廊に沿うようにまたは回廊が建物全体の中心になるような空間構成は、他に訪ねた修道院にも共通している。
シトー会の修道院に話を移す。



          シトー会のセナンク修道院。宗派が違うが、同じく回廊を中心に持っている。
 
 シトー会系の修道院。主に12世紀前半にかけて広まり、他と比べてとりわけストイックな宗派であったという歴史も含めて、ロマネスクの修道院の中で傑作と讃えられている。僕も例外なくとても感動させられた。装飾が....とかよりも、その場に流れていた決定的な事象によってだけれども。
修道士の生活は、僕なんかと違って実に規則正しい。祈り、食事、労働、学習、睡眠という生活のサイクルを、死が訪れるまで継続することで、彼らの悲願は達成される。そんな修道士の生活のリズムを単純な矩形の回廊が定着させている。
さらに矩形の回廊は、これまた矩形の中庭を作る。


          シトー会のル・トルネ修道院。回廊に囲まれた中庭には、空と土と草花が。それしかない。

その中庭には自然しかない。空と土と草花。修道士の一日の時間の流れとここで起こる彼らの死までの時間の流れを、圧倒してしまう程の壮大な時間の流れがここにはある。
いや違うなぁ。そんな当たり前のことを改めて意識させるように、中庭が自然を切り取っていると言ったほうが正しいかもしれない。



修道士のぐるぐると巡る時間の流れと、その真ん中に流れる自然の壮大な時間の流れ。ひとつの建物の中に、圧倒的に異なる時間の流れが重なっていること。そして、それを包括し定着させる建物の型。囲って切り取ることによって、改めて意識させられるこの世界の悲しくなる程の圧倒的な大きさに僕個人が接続したようで、心が揺らいだ。とにかく圧倒的に”世界”を意識せざるおえなかった。
絢香の「みんな空の下」って曲のタイトルも、この意識のきづきにちょっと似てる。あれ聴くと、只ただぼーっとなる。




これは前にも書いたことだけど、優秀な建築の型には、そこから新たな現象を生み出す力がある。そこ(ある限定された世界)にあるべき生活像と、その周辺(その他の世界)との長期間の関係を考えることが設計であり、その関係性にきちんと言及した建築の型には、そこに滞在する人々の想像力と重なって、世界と接続する現象が生まれる。いや生まれてしまう。
今回の場合は、そこにあるべき生活像=《祈り、食事、労働、学習、睡眠の継続するリズム》と、周辺との関係性=《周囲から閉ざされる》から導きだされた建築の型《回廊型のプラン》が、人間の生活とその中心にある自然との時間の流れのコントラストを見事に包容したことで、生み出された現象であると考える。本当かは知らんけど。結果そうなったのだ。

建築ってとことん懐が深い。



閉じようとすればするほど、恥ずかしいほどに世界にさらされる感じ。
修道院という宗教上、周辺から物理的に孤立することを前提としたビルディングタイプの中でこのことを感じたことに、建築の人に対する寛容さと偉大さを感じてしまった。

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