2011年4月11日

建築家としての姿勢。ALVARO SIZA→AIRES MATEUS。1+1=3。

今回はALVARO SIZAの話とその展開。シザとかになると、ベタ褒め感動しか話さない、書かない人ものが多いけど、それでは後には何も生まれない。だからここでは、はっきりとその先まで話を展開させよう。批判はどんどんカモン。
すべてはその後の展開が大事。自分の為。日本の為。僕らの思考は止まったら終わりの生ものです。

ポルトガル。ALVARO SIZA VIEIRA 17件。SOUTO DE NOURA 3件。AIRES MATEUS 3件。走行距離ようわからん。でも、平均で15分で40キロくらい移動してたw
今、生のある建築家の中で、神と呼ばれる建築家がこの世には何人かいる。その一人がポルトガル人。建築勉強している人なら必ず目にするであろう。ALVARO SIZA VIEIRA。今年78歳の現役建築家。ポルトガル国内では、街行く人たち皆彼の名前を知っていて「あぁ、シザの建築観に来たのね」って笑顔で場所を、しかもポルトガル語で教えてくれる。(こっちも、一言もわからない言語をわかったふりして笑顔をかえすんだけどw)そんな笑顔のコミュニケーションとサンサンと降り注ぐ太陽の元で、元気いっぱい。さらに建築家が本来とても高貴な職であることを再認識させてくれて気を引き締めると共に、お腹いっぱい。


さて、ALVARO SIZA VIEIRA(これ以後シザ)に話を戻す。17件の紹介をするのは別の機会に任せることにして、今回ここでは彼の作品を通して考えたことを書き記したい。下に載せているのは僕のスケッチの一部。元々絵が下手なのに、さらに現場でざっと書いていたことが重なり、とても稚拙な表現に留まっているが、感じたこととここに記す展開が押さえられていると思う。(クリックしたら大きくなります。)
左上:Galicia Center 右上:Municipal Library
左下:Communication Fuculty of Univ Compostela 右下:Igreja De Marco De Canaveses
左上:Igreja De Marco De Canaveses 右上,左下,右下:Aveiro Univ Library

左上:Pavillion of Portugal 右上:Adega Mayor Winery
下:College of education of Setubal


シザは、よく建築モダニズムにおける正統後継者と位置づけられる。前に書いた日記の最後に出てくるコルビジェ、それからアールトの系譜の後継者。僕のモダニズムに関する解釈の仕方は、教科書に書いてあるそれとはとても異なるが、”空間の構成と場との関係で建築を構想し、その場に消えている、もしくは根付いている豊かな環境を掘り起こすための建築を作る。建築は社会の一部でしかなくそれ以上でも以下でもないと主張した人たちの運動”。と解釈している。彼はその系譜に乗っている人。              
特にシザは、”根付いている豊かな環境を掘り起こす”の部分が飛び切り良い。(今回の見学で建築の立ち方にも、ものすごく感動した。けどとりあえず。)ポルトガルは太陽があつい!痛い!気持ちがいい!この相反したい事項を重ねた太陽光が空から降ってくる。この光を取り込んで空間を作るのが抜群にうまい。妙なことはしない。
何件も見ていくと、設計ルールを大きく2つ見いだすことができる。この組み合わせで毎回僕らに新鮮な感動を与えてくれる。


①”東、西、北のどちらかの方向に水平連窓もしくはロッジアを設けて、柔らかい光と風景を取り込む。南側(教会は西側だったけど。)からトップライト、ハイサイドライトで点の印象的な光を落とす”
②”洞窟を想起させるような囲いで光を覆う。囲いの仕方で光を床に落とすのか壁に当てるのかを操作する。これがシザの真骨頂。まぁ半端者には。。”


特に②の囲いの操作は、ちょっとぉお!待ってクダサイヨーってな感じで、至る所に出てくる。階段の吹き抜けの腰壁として、天井の端の凹みにも。だから①で落とした光が予想外の所にまで落ちてきたりで、構成以上の視覚的複雑性を得ていて楽しい。
そして、なんと言っても大事だったのは、どの物件もとても居心地が良かったことだ。柔らかい光が入ってくる陰の部分に人が溜まり、上から落ちてくる陽の印象的な現象と水平連窓から見える風景を楽しむ。大学の施設でも、図書館、美術館でも教会でもやることは変わらない。そして与える感動の強度も変わらない。それはなぜか。彼が導く出す形式は、”誰のため、何のため”であるか、その点がとても的確にあって作り出されているからだ。だからどんなものより柔軟でそして強い。

食堂のおばちゃんが映ろうが献立が映ろうが、人のための①②による彼の空間は失われない。
居心地がいい。






この先は、感動と同時にわき出した疑問とそこからの展開。



上記のように、彼の空間は、言ってしまえば1つの空間を作る①②の形式によってできている。それが故に、必然的宿命的に彼の建築は薄い。Thinである。細かく言うと、彼の建築は印象的でオープンなスペースの作り方故(特に①)に、条件として必要とされる居室をそのスペースの片側に平行につなげる、もしくはオープンなスペースだけにする空間の構成形式を選択せざるをえない(それでいいか悪いかは別にして)。だから断面上短手部分はどこを切っても幅を持たないし、持てない。

例えば50M×50Mの建物を作ってくださいと言われたら、うーむと思ってしまうのだ。大きな床面積と居室数を条件にされた場合、その中でシザをどう乗り超えられるか。それを考えなければならない。

この話は何もここだけではなく、建築界が長年抱えている問題、建築の大きさと空間の質の関係に話を接続させることができる。建築の大きさに対して、建築家の思想をどこまで等しく広げることができるのか。


そこに対する答えの一つをAIRES MATEUS ARCHITECTSが導いていると感じた。

  Sines Art Centre. by AIRES MATEUS ARCHITECTS.
建築の大きさが求められる。この可能性をみる。

中に街路が横断している。そこにあのシザでみた水平連窓。

AIRES MATEUS。ポルトガルの次世代を担う若手建築家兄弟ユニット。最新のEl Croquisは彼らの特集号のようで。彼らの作る建築は一見とてもわかりやすい。というのも、彼らがもつルールの中の一つに空間の配列複製があるから。日本では、図式建築なんて呼ばれたりもするだろう。このSINE ART CENTREもそんな彼らの作り方がとてもうまく描かれている。

そもそも一つの空間を配列複製、分散配置し、全体形を構築していく方法がこんなにも世に溢れ出したのは、先ほど出した”建築の大きさと建築家の思想の広がり”に関係している。僕がわかりやすく例を出せるのは、やはり妹島和世。彼女は自分の身の周りの半径数メートルにある自分を包む身体的感覚によって建築を作る。いや、それしか信じない。だから、依頼される建築の大きさが大きくなっていった時に、彼女は自分の身体感覚で設計できる範囲を一つの構成単位とみなして、その質を配列複製して建築の大きさを作っていく手法を見いだした。
さらに配列複製という手法は、その他の操作(例えば窓の開け方)とうまく重なった時にだけ、新たな現象を生む。これこそが、彼女のそしてSANAAの建築が持つ独自性とうまさでだと思う。身体が延長していく感覚。これは、僕がAlmera Stads Theatherに行った時に感じた感覚。青木淳はこの感覚を次のように表現する。
”1+1=3”
説明しようとするとややこしいのだが、似た場所を2つ作った時に、あちら側にいる時と、こちら側にいる時の二つの感覚があるのと同時に、こちら側にいるんだけどあちら側に身体があるようなもうひとつの感覚。借景とかとはまた違うんだけど、とても現代的な感覚とされ、僕自身はこの感覚こそ日本的であり可能性があると思っている。

水平連窓に、トップライトを並列。空間の作り方はシザに似てる。彼らはその空間を配列複製していくことで
建築の大きさを獲得していく。しかもそれだけではない。
水平連窓の重なりから生まれる、1+1=3。ここでは、マテウス達がシザの言語が持つポテンシャルを
さらに引き出す現象を作りだしていることを体感することができる。

彼らは、シザの空間形式を参照しながら、建築の大きさを作る形式(配列複製)の可能性を導きだし、さらに配列複製することによって、シザの空間形式に秘められた新たな可能性(1+1=3)までも模索していると読める。先人が導きだし定着させた形式を参照していく上で、その次の世代が、それを踏襲しながらも現代的な感覚で、それが持つポテンシャルを引き出し、湧き出てくる問題点を飛び越えていく。世代を跨いで考察していくことで、愛されていく建築の作り方、継続の仕方とその塗り替え方、建築家としての姿勢を学ぶことができる。うん。とてもよす。

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